あんなこと、こんなこと











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ご無沙汰しております、ちゃたーです。
この夏私は、下の写真のリスのように過ごしておりました・・・


この写真、もとは8月末、夫が Facebook を見ていて、 「米国ミズーリ州に住む友達が、面白い写真を載せています」と見せてくれたものです。 夫の Facebook 友達は、ペットの写真や動画をアップする人も多く、 私は見るたびに笑ったり感心したり驚いたりと楽しみますが、これもそうした写真の一枚です。

暑いさなか裏庭に遊びに来てくれたリスのために、 デッキに氷を入れた容器が置かれています。そのおもてなしに感謝する気力もなく、 氷の上にだらっと体を投げ出し一息つくリスちゃん。 この4年前に撮った、愛らしくほほえましい写真を、彼女は改めて8月当日に 「今日の思い出」として再アップしたようです。

ところで「もとは」と言いましたが、実はこのブログの写真は Facebook から取ったものではありません。 今は亡き私の義母グレィスの裏庭に来ていたリスたちも、木の上とかでリラックスしていたことを思い出し、 私はリスの画像が見たくなりました。そこで何気に squirrel on the ice で検索をかけたところ、検索サイトの画像に同じ写真が出てきたのです。 誰が投稿したのか知りませんが、そんなこともあって、 私のお気に入りのこの写真をブログでご紹介することにいたしました。

さてさて。今日からもう9月、過行くこの夏の暑さも思い出となりつつあります。 私の夏は写真のとおりでしたが、皆さまの夏はいかがでしたか?

9/1/2017    








7月9日から11日までの4日間の旅客船クルーズ「瀬戸内海と壱岐島クルーズ」に参加しました。 初めての船旅はたいへん新鮮で、6.35万トンの巨大な客船は、さながら動くホテル。とても贅沢で快適な時間を過ごしました。


ある日の船内生活スケジュール表


しかし、船内生活のことを書くより、上陸地の壱岐島のことを書きたいので、ここでは、コース図と、短い動画を載せておきます。 動画は、普段は見ることのできない、大橋をくぐり抜けるときの下からの眺めです。


来島大橋(動画)



コース図

この船旅の最初の上陸地は、博多から船で2時間ほどの、玄界灘に浮かぶ壱岐島でした。「壱岐・対馬」とペアで言われる島です。 面積は一色町を除いた西尾市くらい。人口は一色町くらい。「島」というと佐久島、 日間賀島のような認識しかなかったので、その大きさに驚きました。観光バスにのって島巡りをして、ほぼ1日かかり、 パチンコ屋が6軒もありました。まわっているうちに、もっと驚くことがたくさんありました。

 まえに、下北の旅のなかで、芭蕉を引き合いに出したことがあります。奥羽地方を辿った芭蕉ですら下北へは行かなかった、 というわけでしたが、その芭蕉には、俳人河合曾良が随行していました。芭蕉は「おくのほそ道」のなかで、 なにくれとなく自分の世話をしてくれる曽良のことを親しく述べていますが、なんと、その曽良の墓が壱岐にあるのです。

 まさに、旧師芭蕉の最後の句「たびに病んで ゆめは枯野をかけめぐる」そのものですね。 高校の古文でしか付き合いのなかった曽良に、壱岐で会うとは思いがけないことでした。


驚きの二つ目は、壱岐島には、弥生時代の登呂遺跡、吉野ヶ里遺跡と並んで、それよりも大きな「原の辻遺跡」があるのです。 立派な復元遺跡公園ができています。

原の辻遺跡

 弥生式遺跡があるということは、今から2〜3千年まえは、その地点が日本の最先端の文化を持っていたことの証明です。 3遺跡の中でも、壱岐の遺跡からは石器にまじって鉄器が見つかっているそうですから、いっそう驚かされます。 鉄の道具を使って、立派な水路をつくれました。石器では不可能な工事でした。

 帰ってから読んだ、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの「壱岐・対馬」で、その驚きの原因がわかりました。 以下は司馬遼太郎の受け売り。

上古、まだ「国」が定かでなかったころ、朝鮮半島と九州北部とはさかんな人の交流があり、朝鮮ともっとも近い壱岐対馬は、 その影響をもっとも早く受ける地理的優位性があったので、いつも当時の最新技術を得られたのでした。

 時代が下がり、日本で律令国家が成立すると、こんどは朝鮮半島からは新羅と唐の軍隊が攻めて来るかもしれないと言うので防人が壱岐 ・対馬に置かれるようになり、万葉集にも防人の歌が多く載ります。

 壱岐島には敵の水軍の来襲を発見したら、狼煙(のろし)をあげて、それを中央に伝えるための熢火台(ほうかだい)が置かれ、 常時防人が見張り、ここで点火されたのろしは太宰府から瀬戸内の島々を転々とわたり、最後に大和の春日山に至ったといいます。 修学旅行の定番コース奈良公園に「飛火野」がありますが、ここでしょうね。壱岐は現代の「早期迎撃システム」の原始版が設置されていた、 律令国家のもっともホットな地点だったのです。

 そのほか、新羅の魏志倭人伝に登場したり、山上憶良が壱岐の海人のことを詠んだり、大和朝廷の専門技官として占いを行う卜部(うらべ)が、 壱岐から必ず呼ばれていたり、古代日本の文化の先端地域であった事実が多くありますが、今は、誰も知らない離島です。


私はこのクルーズで壱岐島に上陸するまで、その場所すら定かでありませんでした。息子は「オキかい?」と言い「イキだよ」と言っても 「へえ、それどこ?」とかえす始末。下北半島のことを忘れられ「」ところ、と書きましたが、 壱岐島は現代人から忘れられ「」島でした。行ってよかったと思います。 この歳になって、新しい知識を得るのは嬉しいことです。その意味でも贅沢な旅でした。


名古屋港にて

8/13/2017    







まえおき。

下北半島に行ってきました、と言うと、たいての人は???という顔をします。 これが、房総半島とか能登半島などだと、そうはならないように思います。 つまり、下北半島というのは「忘れられる半島」なのです。

下北半島とは。

            15世紀中期の国境図

鎌倉・室町以前、平安貴族たちの認識では、東北地方の印象は「道の奧、みちのく」としての認識しか無く、 旅もかなわぬはるか遠くにも国があるようだ、くらいのものだったようです。 その遠国に想像上の旅をするというのが風流であり、行ったことがないのに 「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」(後拾遺集・能因)などの歌を詠んだりしています。

 地図は、応仁の乱前後(15世紀半ば)の国を示した資料ですが、東北地方は漠然と「陸奥(むつ)」と呼ばれ、現在の青森県付近では、 出羽と陸奥の境すらあいまいになっています。時代が下がった江戸時代の芭蕉は、実地に旅して「おくのほそ道」を著していますが、 さすがの芭蕉も、その行程の最北は平泉まででした。 夏草やつわものどもの夢のあと(芭蕉)

 下北半島は、その「おくのほそ道」の、もっと奧にある場所です。 2017年のGW明けの5月はじめ、この下北半島にひとり旅をしてきました。コースは…….と地図を入れたいのですが、 困ったことに、この部分だけの地図がないのです。 忘れられる半島と言われるだけのことはあります。仕方がないので、他の資料図を加工して出します。

 もっとも、「忘れられる半島」をいいことに、国は、核燃料再処理工場を下北半島に設置しています。 この地図には見えませんが、半島の付け根の部分、地図の右下の外の六カ所村があり、ここに核燃料コンビナートがあります。


下北半島北部

 旅の初日は温泉で泊まりました。途中2回の乗り換え時間が10分ずつという能率のよさで、蒲郡を10時に出て、 その日の18時半に宿に到着です。下風呂温泉という、うれしい名前の温泉です。乳白色の掛け流し硫黄泉で、 いかにも温泉という感じの、いい湯でした。

 翌日はバスの時間までゆっくりと海岸など散歩。ここはイカつり漁船の基地でもあり、おりからイカ漁の解禁日とあって、 イカつり漁船を間近に見ることができました。温泉街は残念ながらちょっとうらぶれた印象。 もっとPRすれば客も増えるのに。忘れられているなあ。いい湯なのに。




大間崎。

定刻にバス停から乗車。下北の路線バスは、どれもとても時間が正確です。約30分で本州最北端の地、 大間崎着。帰りのバスまで約2時間半を、ゆっくり過ごしました。といっても何にもないんですね、ここは。 休憩所で津軽三味線の生演奏してくれたおばさんが、その後軽トラ屋台でイカ・タコの干物を売っていたりしました。 大間マグロの一本釣り漁法がありますが、漁法がユニークなだけで特にたくさん獲れるということではないので、 マグロを安く食べられるというわけでもありません。

 「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて蟹とたはむる」(啄木)が詠まれたのはここだ、という石碑がありました。 これは意外でした。函館にも同様の碑があるそうです。

   

 バス停のまえの土産物屋で証明書を発行していましたので、200円で買いました。デザインされている写真は、 海岸広場にあるプラスチック製のマグロのモニュメントで、グロテスクでした。大間崎には似合わない。

   


恐山。

大間崎をお昼に離れ、ゆうべ泊まった下風呂を通過して一旦むつ市のバスターミナルに1時間半かけて戻り、荷物を預けて別路線で恐山へ。 下北半島を知らなくても、恐山の名は知っている人は多いと思います。死者の魂を呼び戻して、 巫女の口から死者の思いを聞こうとする「いたこの口寄せ」があります。ずいぶん賑やかときいていましたが、 それは夏と秋の例祭のときだけだそうで、いまは静寂そのもの。下の写真は絵はがきではなく、私が撮りましたが、 広い境内にだれもいません。連休明けだからでしょうか。こんな名勝景色は初めてです。

 右の写真の左手側にまわると、左の写真のような岩山になり、その岩陰の至る所に大小さまざまなお地蔵さんが置かれています。 それぞれの地蔵には、置いた人それぞれの思いがこめられているようでした。全体は荒涼とした溶岩の堆積で、昔から、 この地方の人々の間に「死んだらお山(恐山)に行く」という信仰があるのも自然に納得できる場所でした。 「賽の河原」の石積みもあったので私もひとつ石を置いて祈りました。昔、北アルプスを歩いたとき、 頂上にあったケルンに石を置いてきたことを思い出しましたが、それとは違って、ここでは祈りをこめました。

   


尻屋崎。

3日目はまたバスで尻屋崎へ向かいました。尻屋崎は、東北最古の灯台で日本の灯台50選のひとつ、尻屋崎灯台と、 冬の吹雪にも放牧されている寒立馬(かんだちめ)で知られています。牧場のゲートは5月1日まで閉鎖されているので、 いまはシーズン開始というところ。バスがゲートに入ったらすぐに、馬たちが数頭、行列をつくって道路を横切って行きました。 バスはもちろん馬優先で停車。馬たちはバスの窓のすぐ下を通り抜けて行きます。この角度からこんなに間近に馬と対面したことは初めてです。 どの馬も、大きくてやさしい目をしていました。

 とっさのことで写真を撮る余裕もありませんでした。でも、馬たちの落とし物を撮ることはできました。近年、 これほど立派なものを見たことはありません。戦前の幡豆の往来では、荷車を引く馬たちのものにつまずかないように歩いたものですが。

 話題を変えましょう。下北半島の陸上公共交通機関はバスだけです。太平洋側を下北交通バス、むつ湾側をJRバス東北の路線が運行しています。 JRバスには乗らなかったので分かりませんが、私の乗った下北交通のバスはどれもガラ空きで気の毒みたい。 尻屋崎への往復バスなどは、行きも帰りも私以外に客がなく、貸し切り状態。大丈夫かなあ、下北交通さんは。

   


バスターミナル

度々お世話になったバスターミナルは、下北交通バスのターミナルで、すべての路線の出発点でです。 と書くとにぎやかな交通拠点のようですが、ここのは自販機がひとつ置いてある待合室と切符売り場があるだけの建物です。 しかし、荷物を預かってくれたりするし、土地の人々がここに来て、バス待ちの間に世間話に花を咲かせたりしているのは、 大都市のバスセンターなどとは違う風景でしょう。



斗南藩 会津の人々の史跡。

2013年の秋、会津若松に旅して以来、私はすっかり会津びいきになりました。 その年のNHK大河ドラマ「八重の桜」に惹かれたのがきっかけでしたが、城下町会津の至る所に、 戊辰戦争を戦った会津藩士の足跡が誇り高く残っているのを知り、日本人が失いかけているものがまだ残っている町として認識したからです。 それは「ならぬことはならぬものです」という子弟教育のことばに象徴されています。

 その会津藩は、敗戦の結果、禄高を十分の一に削られ、下北半島に移住して見知らぬ土地で生きて行くことを強いられました。 そして私の下北の旅の目的の半分は、下北で斗南藩をつくり新天地を築こうとした人々の史跡を見ることにありました。 ですから、このためにはほとんど1日をかけて、タクシーをチャーターして史跡めぐりをしました。 むつ市の観光用のサイト を紹介しておきます。

 もちろん写真もたくさん撮りましたが、ここでは1枚だけパノラマ写真を載せます。明るい林ですが、ここに、 入植した藩士たちの住居が200戸ほどあったそうです。旧城下のような家格による住居の差はなく、全戸同じ大きさの、 冬には隙間から雪が舞い込むような粗末なもので、凍死した人もあったとか。



大湊 もうひとつの顔。

映画「飢餓海峡」と ドラマ「海峡」は、水上勉の原作を元にしてつくられたものです。
 「飢餓海峡」は内田吐夢監督の最高傑作と言われ、主演三國連太郎の名も残っています。大湊の花街が舞台のひとつで、 ここでロケがあったというので、それらしい記念碑でもあるかと、ホテルの電動自転車を借りて探してみましたが、ありませんでした。 この題名は、なにかおどろおどろしいものを思わせますが、今の大湊は、普通の街でした。

乗り鉄コレクション。

旅の目的の残り半分は、JR大湊線に乗ることでした。この目的も達成し、大満足。写真もたくさん撮れましたが、 乗り鉄でない人にとっては全く興味の持てないものが多いので、少しだけ載せておきます。「見どころ」もつけておきます。

  • 左上は終端駅にある車止め。大きな駅のは、ダンパーがついたり、エアクッションがついたりしているので、 こんなに素朴なのは珍しくなった。
  • 時刻表は2時間空白なところもある。よく見ると、同じ快速でも行き先が「青森」「八戸」と全くちがうのがある。 厳密には、JR大湊線は野辺地から分岐する線。八戸---青森間は第三セクター「青い森鉄道」線。他のJR線と接続していない、 飛び地ならぬ飛び線で珍しい存在。(大間崎証明書地図参照)
  • 防雪林が「日本最古」であるのは、北海道より先に鉄道ができたから。明治時代から帝国海軍の基地が大湊にあり、 はやくから鉄道が敷設された。大湊は今も海上自衛隊5大基地のひとつ。


 
 


しめくくり。

乗車券は紙切れですがたいへん高額なもの。最後にそれを駅の自動改札機に捨てることには抵抗があるし、何よりも、 その路線を完乗した証明として、乗り鉄には貴重品です。これは券売機でなくてちゃんと窓口で買います。 経路が複雑なものは経路図を書いて、窓口に出します。出発当日だと混み合うと困るので、 前日までに空いている時間帯に蒲郡駅に出かけて買います。目的地の駅では改札で無効印を押してもらって、自分のものにします。

 付録で、帰りの八戸駅で買った駅弁の包み紙を載せておきます。 この弁当は、私が今まで味わった駅弁の中では最高に美味でした。包み紙も新聞紙みたいでユニークです。 2016年度のJR東日本管内の駅弁で人気第2位だったそうです。もういちど食べたい。

   

6/11/2017    


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